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「深夜特急」の世界に憧れて (回想録 XX年)
アユタヤの駅で列車から降りたのは、私を含めてほんの数人だった。
改札を抜けて、前にあったベンチに荷物を置き、辺りを見回してみた。

なんと、ローカルな、そして飾り気の無い駅なことか..............

ここに到着するまでは、この有名な古都「アユタヤ遺跡」の玄関口だから、京都や奈良のようなさぞかし活気のあるきらびやかな駅舎を想像していたのだが、実際、ここに降り立ってみると、その想像はことごとく覆された。

田舎町の小さな古びた駅舎だったのだ。
駅舎は木造で、薄暗く閑散としていた。

外に一歩出てみると、「トゥクトゥク」と呼ばれる、原付バイクを改造してお客を運ぶ乗り物がタムロしていて、早速私は目を付けられてしまった。
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アユタヤまでは、約1時間の鉄道の旅だった。

日本でも、私は頻繁に鉄道を利用するのだが、この鉄道はどこか様子が違う。
そして、どこか懐かしい。

客車が全般的に古いからなのか?
いや、そんなことでは無い。
私は、何故そう思うのか、その場でじっと考えてみた。
..............
しばらくは、よくわからなかった。

汽車がアユタヤにそろそろ到着しようと、減速し始めた頃、ふとしたことが頭をよぎった。
「この匂いだ!」
それまでは、列車の速度が速すぎて、車内に吹き込む風が強いため、よくわからなかったのだが、確かに、この「匂い」がそう思わせる源だった。

1960年代に、小学校に通った経験がある私達の世代ならよくわかるのだが、この客車は床が木製で「油引き」がされていたのだ。
そしてその独特の「オイル」の匂いだったのだ。

アユタヤ遺跡

やがて列車は、何の予告もなく、静かに発車した。
こちらの方では、日本の駅のようなアナウンスなど無いのだ。

外の気温は、恐らく35度くらいはあるだろうと想像されるのに、この汽車にはエアコンなど無い。
当然のことながら、どの窓も全開にされていて、汽車の速度が増すにつれて、風が暑さを和らげてくれる。
そして客車の天井には、所々、扇風機が取り付けられてあり、首の部分をグルグルと周回させていた。

もう今の日本では、ほとんど見かけなくなってしまったが、私が子供の頃は、当時の国鉄のほとんどの列車はこの回転式の扇風機だった。
見ているだけで、とても懐かしい。

扇風機だけではない。
車窓から見える景色。
人々の表情。
人々の服装。
活気。
なにもかもが、私の子供の時代、1970年当時の日本と重なって見える。

ホームに、バンコク市内方面から列車が滑り込んできた。
しかし、実際のところは、滑り込むというよりは、ディーゼル機関車が轟音を発しながらという方が正確だったかも知れない。

二両連結の機関車に続いて、相当長く連結された客車が、減速しながら、そしてレールと車輪との高い摩擦音を出しながら、到着した。

そしてこの駅でもそうだったが、ホームの高さが低いのだ。
だから、列車に乗り込むためには、列車のドアに設けられている階段を、二段ばかり上がらなければならない。

日本では、ホームと車内の床の高さが同じなので、普段はこんなことは気にもならないのだが、外国では見るものすべてが新鮮に見える。

出発の5分くらい前になると、それまで閉じられていた鉄製の改札が開けられ、恐らくは次の列車の改札を始めるという意味のタイ語を発しながら、駅員はボックスの中に収まった。

この駅を通る北行きの列車は、すべてバンコクの「ファラポーン中央駅」始発である。
だから、そこでよほどのトラブルが無い限り、このドンムアン駅で遅れるということは無いのである。

しかし、反対のバンコク行きとなると話は別である。
北部のチェンマイや、ラオス国境の街ノーンカイからの長距離列車がたくさん通る。
遠方から何時間もかけてやってくるので、ダイヤ通りという方が不思議なくらいである。

「アユタヤ!」
私は、指を一本立てて、切符を一枚欲しいということを、窓口の向こうの年老いた駅員に伝えた。

「18バーツ」
すぐに返事が返ってきた。
18バーツと言えば、日本円で60円くらいだ。
私は、瞬間あまりの安さに驚いた。

「もしかして聞き違いかもしれない?」
それでもう一度聞き直した。

「アユタヤ、18バーツ?」
老人の駅員は、頷いた。
やはり、正しかった。

もう一つ尋ねた。
「アユタヤまで、どれくらいかかりますか?」
「1 HOUR 」
今回の旅では、鉄道の旅は初めてだ。
そう思うと、急に嬉しくなってきた。

駅の改札に佇んで、やや上方を見上げると、確かに電光掲示板ではあるけれど、とても古めかしいタイプのものが吊されていて、上り、下り、それぞれの方向に向かう次の列車の行き先と出発時刻が表示されていた。

しかし、国が違えば方式も少し違っていた。
日本では「上り」「下り」のところが、「北方面」「南方面」だったのだ。

だから、
北方面「12:38 ノーンカイ行き、快速」
南方面「13:04 バンコク行き、普通」
こんな風に表示されていた。
よく見ると、改札の壁に手書きの紙が張られていて、
「次のバンコク行きは,約40分の遅れ」

だから、もう何も迷うことは無かった。
「次の北行きに乗ろう。そして、目的地はアユタヤへ」

「駅に行ってみよう」
到着ロビーの喧騒をくぐり抜け、私はまず空港前にある「ドンムアン駅」に行ってみることにした。

ちょうど国際線ターミナルの中央付近にあるエレベーターに乗って、二階へ上がる。
そして、アマリエアポートホテルに通ずる長い渡り廊下のような通路を100メートルほど歩くと、さり気なく目立たないように地上に降りる階段があるのだ。

その階段の下には、目の前の「国際空港」には、どう考えても似つかわしく無い、とてもローカル色の強い、のどかな風情の小さな駅があるのだ。

私はその小さな駅の改札までやってきて考えた。

子供の頃からよくやる手なのだけれど、
ターミナル駅で無い限り、普通の駅なら次に来る列車は「上り」か「下り」のどちらかだ。
「先に来たほうの列車に乗ろう!」

両替を済ませる頃には、少しづつ周りの景色が目に入りだした。

何せ、税関を過ぎて到着フロアに入った瞬間の、あの群集の視線と言えば半端ではないのだ。
白タクやらポン引きやらに目を付けられてしまうと、簡単には許してもらえない。
こっちが根負けするまで付きまとわれてしまう。

この日は、上手く目を付けられること無く、両替所のところまでたどり着けた。
「ヤレヤレ………」
入国時にまつわる面倒な雑用が、これで全部終わった。

だから、あとは着の身着のまま、風に流されていれば良い。
日が暮れれば、宿さえ見つけて泊まれば良い。

さあ、北か南か。
どちらにしようか..............。

到着フロアで待ち構える群集を掻き分け、すぐ横に並んでいた「両替所」のカウンターに立ち寄った。

一般的に言えることだが、「空港のマネーチェンジャーはレートが悪い」ので、ここでは最低限にしておくべきであろう。

「タイ」の場合は、どこの街にも「マネーチェンジャー」がたくさんあるから、私は一万円だけ交換することにした。

タイバーツ

結局45分かけて、イミグレーションを通過し、パスポートに「三角形」の珍しいスタンプを押してもらい、私は晴れてタイに入国した。

イミグレーションの先にあるエスカレーターを下に進み、形式だけの税関を抜けると、そこはもう「到着フロア」だった。

ミャンマーとは違い、出迎えの人の数は圧倒的に多い。
しかも、両サイドには「TAT」などの色々なツーリストのデスクがコーナーを構えていて、予約の無い旅行者が利用できるようになっている。

ドンムアン空港に着き、イミグレーションの標識に従って、私は通路を進んだ。

とにかくイミグレーションまで遠い。
最近でこそ珍しく無くなってしまったが、その当時のドンムアン空港は、香港の「カイタック国際空港」より大きく、アジア最大だった。

そして、30ブースほどあるにもかかわらず、世界各地からの便がひっきりなしに到着するので、イミグレーションはいつも混雑している。

この日もやはり通過するのに、30分もかかってしまった。

チャオプラヤー川(バンコク)

国境上空を過ぎ15分もすると、もうカンチャナブリー付近を通過し、高度が1000メートルを切り、地上を走る車をハッキリ確認することができるようになってきた。
そろそろ、空港から出たあとのことが少し気になりだして、私は少し落ち着かなくなってきた。
理由は、こうだった。
空港を出たあと、タイから先の航空券を探すために、南方向の市内方面「カオサン通り」を目指すか、
それとも北方面の「アユタヤ」を目指すのか?
この後、イミグレーションを通過するまで結論が出なかった。

チャオプラヤー川(バンコク)

眼下に広がる田園風景を見ていると、やはりミャンマーとタイは違うのだと感じせられる。
上空から水田の整備具合を見ても、きちんと定規で線を引いたように、しかも日本の北海道の農地も想像させる雄大さを兼ね備えている。

空の上から見て、「人工的」という言葉がピッタリくる。
恐らくこれが、日本からやってくる飛行機の中から見ているならば、「非人工的」に見えるのだろうが、今回の私はミャンマーからだ。

同じものでも、見る者が変われば全くその評価は違うものになる。

距離が近いためか、離陸して30分もすると、これから徐々に降下体制に入るというアナウンスが流れた。

「目的地バンコクの天候は曇り、気温は摂氏34度..............」
機長のアナウンスが流れ、しばらくすると、ガクッと軽い振動がして、確実に機体が降下してゆくのがわかる。
たぶん、高度1万2000フィートの水平飛行の状態に達する前に降下し始めたようだ。

キャビンの前方にあるスクリーンの地図によると、すでに国境上空は通過して、タイの「サンクラブリー」付近に達していた。

私の乗った「TG304便」は、悪天候だったため、離陸すると1分もしないうちに、雲の中に吸い込まれてしまった。

機内でははや、バンコクでの入国審査や税関の書類が配られ始め、CAたちがせわしなく行き来していた。
きっと、ヤンゴン-バンコク間のフライト時間が約1時間と短く、その間に食事の上げ下げをしてしまわなければいけないからだろう。

離陸して大きく旋回して、一度ベンガル湾の上空に出た飛行機は、再度モン州のモウラミャインあたりで陸地の上空にさしかかった。

出発時刻の30分前になると、アナウンスが流れて機内への誘導が始まった。
これで本当に、ミャンマーとはお別れだ。

指定された窓際の席に座り、丸い窓から最後の景色を眺める。
「来る前の予想と、帰る時の感想が、これほどまでに違った国は、他には無い!」
もちろん、良い風に印象が変わったのだが。
一言で締めくくるとしたら、すぐにこんな言葉が出てきた..............。

機長のアナウンスが流れた。
「Cabin crew door close」
しばらくして、ドアが閉められた低音の響きがした。

一つの旅が終わった。

そして、それは、次の旅の始まりでもあるのだ。

しばらくすると、正面に見える滑走路を、水しぶきを真っ白に上げて、右から左に一機、勢い良く着陸してくる飛行機があった。

遠すぎてよく見えないが、機体の大きさからして国際線であることは間違いない。
白地に紫色のライン。
出発1時間前であることから想像すると、たぶん私の乗る「タイ航空」であることは間違いなさそうだ。

そして、視線を手元のパスポートの方に戻してみる。
ページをペラペラと捲ってみても、まだこの頃は、大して渡航歴もなかったので、最初の数ページに少しハンコが押してあるだけだった。
でも、その数個のハンコが、その時の私にとっては「宝物」のような感じがしていたのを、今でも覚えている。
「旅」の記録など、特に書いてはいなかったので、そのパスポートに押してある出入国の日付入りのハンコは、私が間違いなく「旅」をしたことを証明してくれる唯一の「証」だったのだ。

出国審査場を過ぎると、かたちばかりの免税店があり、その少し先に「GATE 3」はあった。
「TG304便」の待合室には、プラスチック製の粗末な椅子が、整然と並べられているだけだった。

私は、その一つにリュックを下ろし、窓に広がる滑走路を眺めながら、この国での出来事を思い出して感傷に浸っていた。

何が最も印象に残っているのか?
今、もし誰かに尋ねられたらどう答えるだろうか。

普通なら、脳が自動的に記憶のデータの中を駆け巡り、無数にあるパゴダや遺跡などから一つつまみ出し、意識の中に表示するのだろうが、何故かこの時出てきたのは、「物」ではなく「人」だった。

あの「スラマニ寺院」の前に出ていたお店の「オバチャンたち」だった。
人がほとんどいない遺跡群の中を、自転車で走り回り、何度も通って冷たいものを買った。

今から考えると、高校時代の部活の後にタムロしていた「駄菓子屋」と重ねていたような気がする。
人は、目の前の現実の中に、遠い日の楽しい記憶を見つけた時、「忘れ得ない記憶」として脳裏に焼き付けるのかもしれない。

入国審査の時と比べて、出国審査は呆気ないものだった。

入国審査では、審査官がこちらの顔をジロジロと観察して、
「入国の目的は?」とか
「滞在は何日?」という風に、
明らかにじっくりと「審査」されているのがわかったが、
出国審査では、ただパスポートに「出国」のハンコを押しただけのように私には思えた。

共産主義国に共通していることだが、「入国審査」にやたらと時間をかける傾向が見られる。
これは多分、その国にとって、政治的思想的に問題がある人物の入国を、水際で阻止するためと、一般的には考えられているが、それはあくまで「建て前」なんだと思うことが多かった。

実際は、観光客全員の入国に、有料の「観察ビザ」の取得を義務づけ、パスポートに押されたビザのハンコと、それに添付する書類の記入に不備が無いか、チェックするのに時間がかかっているだけだった。

わかりやすく言えば、外国人から「入国料」をきっちり徴収する「料金所」のようなことをしていたのだ。

どこの国でもそうであるように、このヤンゴン国際空港も例外ではなかった。

空港に入った途端に、空気が変わってしまうのだ。
空港の敷地内に入るまでは、どんなに混沌としていても、一歩空港内に入ってしまうと、整然としていて、治安もしっかりしている。

街ではほとんど見かけなかった外国人も、どこからともなく集まっていた。

長旅に疲れたヨーロッパ人。
頭にダーバンを巻いたインドのシーク教徒。
恐らくはパキスタン辺りから来たと思われるイスラム教徒の女性たちが、一見不気味にも見える真っ黒なベールを纏っている。

「TG304」
タクシーを降りて、各航空会社のカウンターが集まる建物に入った私は、出発便のスケジュールを示す掲示板を見て、何故か急ぐ必要も無いのに、指定された番号のカウンターに向かった。

「マドリード」
すぐ前に並んでいた白人の家族連れが、カウンターの係員に目的地を告げる。
バンコクで乗り換えて、スペインに帰るのだろう。
私はその時考えた。
日本人の私から見た「ミャンマー」観でも、相当の衝撃を受けたのに、このスペインの人たちから見たら、一体どれだけのものだったのだろうかと..............

翌日、ミャンマー最後の日は、朝からあいにく雨だった。
昨日のような激しい雨では無かったが、今日はシトシトと、しかも100パーセントの湿度を伴っていた。

朝7時。
ホテルをチェックアウトして空港へ。

エアコンが壊れているのか、少し進むとすぐに内側のフロントグラスが曇り、タクシーの運転手は、使い古されネズミ色になったタオルで拭いていた。

今ではもうエアコンの無い車などなくなってしまったが、私がまだ子供の頃は、エアコンの付いている自動車は少なかった。
もちろん、バスもそうだ。
だから、よく信号待ちの時などに、運転手は雑巾で窓の曇りを拭いていたものだ。

この1コマごとの情景が、子供の頃の記憶と重なる。
今の日本では見られなくなったことが、このミャンマーには沢山残っている。

「旅」では、現在の同じ「時」を生きる異国を感じることが出来るのと同時に、自分の生きてきた「過去」や、もしかしたら「未来」の姿に触れられる楽しみもあるのだ。

青年を見送ってから、市場を出て、ボージョーアウンサン通りを、ホテルのある方向に歩き出した。

「似たような考え方を持っている」とまでは言い過ぎかも知れないが、少なくともスタイルの近い「旅」をする人間がいて、知り合いになれたことがとても心地よく、ぶらぶらと歩きながら、思い出しては笑みを浮かべる自分に気がついた。

「また、いつかどこかで遭うことがあるだろうか?」

そう思いながら私は、日没間近の太陽に照らされ、ノスタルジックな表情を浮かべるヤンゴンの街並みを脳裏に焼き付けた。

恐らく、最初で最後になるであろう街をあとにする時の、この「胸を締め付けられる感覚」
このような「旅」でしか味わえない感覚に、私はその時、酔っていた。

青年とは、その雑貨屋で30分ほど立ち話した。

パガンで別れてからのことで話が盛り上がり、明日、私がバンコクに引き返し、「カオサン通り」に「ダッカ行き」の格安航空券を探しに行く話をすると、彼はまたアドバイスをしてくれた。

「バングラデシュもいいけど、それだったらスリランカもいいですよ! ダッカ行きよりも安いチケットがいっぱい出回っているのを、この前見ましたよ!
ダッカへは、コロンボからも飛行機、飛んでますから..............」

「そうかあ。その手もあるわなあ。
その作戦は思いつかなかったわあ。」
上には上がいるというか、世の中には、似たような事を考えている人間がいるというか..............。

とても、頭の回転の早い青年だった。
そう言うと、彼は空港へと旅立って行った。
「また、どこかで遭うかもなぁ~」
私は、見送り際にそう言うと、
「自分もそんな気がします」そう言い、
嬉しそうな顔をして去って行った。

特に買いたい物がある訳でも無いまま、私は「ボージョーアウンサンマーケット」の奥深くまで、縦横無尽に散策し、小さな達成感を得た私は、最初に入ってきた正面入口に向かって戻り始めた。

そして、もう少しで出口だというところで、何気なく目をやった雑貨屋の中に、見覚えのある顔を見つけた。
「あれっ!」
自然に声が出た。

あのパガン遺跡で、1日行動を共にし「ポッパ山」まで一緒に行ったあの青年だった。

私に気付いた青年も、
「ヤンゴンに戻ってたのですかあ!」
「そうなんやわー、.....買い物?」
「夜の便で東京に帰るのですが、空港に早く行ってもつまらないので、ここで時間をつぶしていたんですよ」
「夜だったら、シンガポール航空やね」
「遠回りなんですが、安さに負けましたよ。シンガポールでストップオーバーして、ちょっと贅沢してから帰ります。」

............................

「旅」では、こういう事が結構よくあるのだ!
「深夜特急」の中で、沢木耕太郎氏がデリー、アムリッツァル間のバスで知り合った日本人の男性と、パキスタンのクエッタの市場で、バッタリ再開するあの場面のように..............。

私も、旅の途中、何回かこのような「再会」があったのだが、その頃は単なる「偶然」として、「長い間には、こういう事もあるさ」くらいのことで簡単に考えていたのであるが、それ以降、たびたびこのような事があると、最近では、少し違う見方をするようになってきた。

「旅のスタイル」を見ると、その人の性格や物の考え方まで解ってくる。
だいたいの場合、旅行者というものは、同じようなラインを辿って「旅」しているものである。

同じ飛行機に乗っていた旅行者を、ホテル、遺跡、レストランなどで度々見かけるのだ。
ひどい時は、帰りの飛行機が同じだったりする。
よく考えてみると、同じような会社に勤務し、休みが同じだったのだろう。
要するに「似たような人なのだろう」

だから、これは単なる「偶然」ではなく、初めから、かなりの確率で「再会」する環境が整っていたのではないのか?
同じような観光地を選び、同じようなホテルを選ぶ。
最近では、そのように思うことがよくある。

そもそもが、一般的な大衆的な「旅先」を選択せずに、例えば今回のように「ミャンマー」の「パガン遺跡」を選択したというだけで、もう既に、高い確率で「近い価値観」を共有しているのだ。

それ以外にも、「団体ツアーか否か」「年齢」「選ぶホテルのランク」「レストランのランク」など..............
どれか一つ重なるだけで、もう既に「近い価値観」を共有しているのだ。

一度、接点があった段階で、もう既に「再会」する運命にあるのかも知れない。
今回の場合は、この青年とは、パガンのとあるレストランで知り合ったのだが、もうその時点で、かなり似通った「行動パターン」を持っていたのだ。

だから、彼と、こうやって、こんなにマイナーな市場の奥で「再会」したのも、あまり不思議な事ではないのかもしれない。

ボージョーアウンサンマーケットでの、青年との再会

いよいよ、今夜がミャンマーでの最後の夜だ。
ホテルへ戻って休むことも考えたが、何故か「もったいない」という感情がこみ上げてきて、もうひと歩きすることにした。

激しい雷雨が通り過ぎるのを、電話局の建物の中で待ってから、私はヤンゴンで最も大きいと言われる「ボージョーアウンサンマーケット」へ向かうことに。

今いるスーレーパゴダから大通りを北へ500メートルほど行き、ヤンゴン中央駅の前を左折し、ボージョーアウンサン通りを西へ向かい、更に200メートルほど歩くと、イギリス植民地時代に建てられたという一際目立つ建物が見えてくる。

中央の入口から入ると、内部は薄暗くヒンヤリしていて、奥へと続く通路と左右に枝葉状に別れる細い通路には、とにかくビッシリとお店が並んでいる。

私は、あてもなくさまよって歩きまわった。
別に、買いたい物がある訳でも無かったが、「一カ所でも多く見てやろう」という気持ちが強かったのだ。

ここの市場は、ホーチミンの「ベンタイン市場」や、イスタンブールの「グランドバザール」とよく似ていた。

ところ狭しと商品が並べられていて、人とすれ違うのも大変なくらいだ。
カバンや陶器、じゅうたん屋、画廊、..............
無いものなど無いだろう。
「小さな物で、何か記念になるものは..............」
そして、ある小さな雑貨屋に入った時だった。
どこか見覚えのある顔が、そこにあったのだ。

スコールが降り始めてから、5分もしないうちに、無情にもバスはスーレーパゴダ前のバス停に着いてしまった。

流石にここは、市内で最も中心部のバス停だけあって、大勢の乗客が降りようと試みているのであるが、たとえ傘を持っている客であったとしても、この滝のような雨ではスムーズに外へは出れない。

一旦バスの屋根に降った雨水が、乗降口の上から滝のようになって、道路に注いでいるので、中の乗客から見たら、滝の裏側から中央突破するようなものなのだ。

そして乗客の方はというと、普通なら、前がなかなか進まないから、出口に我先にと詰め寄るところであろうが、この時は予想に反して、乗客たちは至って冷静で、お互い助け合い、とても秩序良く見えた。

実はこの時、ミャンマー人の性質というものがよく見えた気がしたのだ。
以前、中国の西安で路線バスに乗った時の記憶と、私は重ね合わせていた。

偶然かも知れないが、西安でもこのヤンゴンの時と全く同じケースに出くわしたのだ。
満員状態で目的地に着いたのだが、その時はとうとう降りることが出来ず、バスは発車してしまった。
そこで私は思った。
「中国には、秩序も何もないのか!」
まだ、降りる客も済んでいないのに、我先にと狭い入口にこれから乗る客が殺到してくるのだ!
中国では、その後も何回か私は同じ目に遭った。

でもミャンマーは違った。
皆、弱者にとても優しかった。
見ず知らずの人でも、気安く傘に入れて下車して行った。

もちろん、この私も、すぐ前にいた中年の女性に救われた。
バスの出口から、前にある電話局の大きな建物まで送り届けてくれたのだった。