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「深夜特急」の世界に憧れて (回想録 XX年)
サイカーを降りてから、私は全く当てのないまま商店街の中を適当にぶらついた。
店と言っても、この辺りは特に観光地という訳ではないので、日用品の店がほとんどだ。
八百屋に魚屋、中には生きたニワトリを売る店やら、ただ見て歩くだけで楽しい。

5分ほど歩くと、大きな川沿いのところまでやってきた。
すると、どうだろう。
私は今の今まで、この国には「仏教」の気配しか感じ取ることが出来なかったのだが、このパゴー川に架かる橋のたもとに、大きな十字架を屋根の上に掲げた「キリスト教」の教会があるではないか..............
そして反対の方に顔をやると「イスラム教」のモスクも..............

宗教の自由に関しても、私が思っていたよりも規制が緩いようだ。
もしかしたら、完全に「信仰の自由」が確保されているのかも知れない。
「ミャンマーの軍事政権」に対する私の中の「誤解」がまた一つ消えた瞬間であった。
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国鉄の線路を過ぎると、にわかに賑やかになってきた。
果物屋、靴屋、食堂、ホテル、肉屋..............
色々な店が、国道の両脇に軒を連ねているのだ。

「この辺りが街の中心部だけど、どうする?」
サイカーのオヤジが聞いてきた。
正直、私もどこで降りたらよいのかわからなかったが、とにかく面白そうなエリアだったので、2000チャット支払って降りてみることにした。
「旦那、チップを頼むよ..............」
サイカーのオヤジが要求してきた。
ニコッとした前歯に、銀歯が光る。
ますます年齢不詳だが、愛想が良かったのでもう1000チャット上乗せした。
黙って3000渡すと、とても喜んでいた。
「旦那、良かったら帰りも乗って行ってよ..............。しばらくはこの辺にいるよ!」
「どうなるか、ちょっとわからないけど..............」
そう言って私は人混みの中に紛れて行った。

マハーセディーパゴダから、10分くらいサイカーに揺られていると、ひときわ交通量の多い通りに出た。
おそらくこれが、大都市ヤンゴンとマンダレーを結ぶ国道なのだろう。
まあ日本で言うと、国道一号線というところだ。

ミャンマーと言えども侮れない。
流石にこの国の大動脈だけあって、たくさんの荷物を積んだトラックが右に左に行き来している。
サイカーは交差点を左に折れ、北に向かう。
大型トラックやら高速で飛ばす自動車がボンボン通る道路の路肩を街の中心部に向かって、ひたすら走る。

時々、タンクローリなどがサイカーすれすれを通り過ぎたりしたら、その風圧と地面を揺らす振動で、生きた心地がしない。
神様仏様に祈るような気持ちで、じっと前方を見ていると、やがて国鉄の線路とそれに続くパゴー駅の駅舎らしきものが見えてきた。

マハーセディーパゴダ


一時間ほど「マハーセディーパゴダ」の静けさを味わうと、私はサイカーの待っている門のところまで降りてきた。
見てみると、真っ黒な肌をした例のサイカーの男性は、自転車の上で器用に横になって眠っていた。
この後は、市内の中心の食堂街あたりで最後に降ろしてもらうことになっている。

サイカーに乗っている間、後ろからペダルをこぐ男性の姿を見ていると、全体的には痩せこけているのであるが、足だけは陸上選手のような立派な筋肉をしている。
ちょうどエチオピアの長距離選手とそっくりだ。
多分、50キロくらいしか体重が無いように見える。
時折、登り坂にさしかかると、ハアハアと苦しそうに息をしながら、蛇行して立ちこぎの体制で自分の全体重をかけて登ってゆく。
70キロの体重の私が乗っているのが何か申し訳なくさえ思ってくる。
だから、乗っている間中、ずっと何か落ち着かなかった。
私はこの光景を見て、「生きていくために稼ぐ」ことの大変さを、この時思い知らされたのを今思い出す。



次に、サイカーに連れて行ってもらったのは「マハーセディーパゴダ」
涅槃仏からは3分もかからなかった。

このパゴダの起源は比較的新しく16世紀中頃。
18世紀のパゴー王朝期に破壊され、更に1930年の大地震によって廃墟と化した。

このパゴダの印象は、色調が地味であるが、静かで私はとても気に入った。
バガン遺跡方面では、主にレンガ色のパゴダが多かったのに対して、ここはコンクリート色の石そのものの色彩が、周りの植物と調和して、見る者の心を落ち着かせる。

そして、パゴダの上に登ることが出来るというので、裸足になった私は何回も上り下りした。
但し、入れるのは男性だけということだった。

マハーセディーパゴダ


2000チャットのサイカーで、最初に連れて行ってもらったのは「シュエターリャウン涅槃仏」
このパゴーの街で最も有名なのがここだ。
ガイドブックによると、全長が55メートル、高さが16メートル、口の左右が2.3メートル、足の裏が7.7メートルもあるのだ。
今から一千年も前の西暦994年に造られたのだが、パゴー王朝の滅亡とともに人々から忘れられ、長い間密林に覆われてしまったが、イギリスの植民地時代に偶然発見されたのだそうだ。

私は、持っていたこの街の地図を、サイカーの客引きに見せ、これから自分が見物したいところを、2~3箇所示した。
「5000チャット!」
一人の客引きが叫んだ。
その目は半分笑っているように見えた。
私は、相場など知らないが、笑っている目を見て直感的にふっかけてきていると思ったので、他の客引きの方を見たら、あちこちから、
「4000チャット!」
「3000チャット!」
黙っていても、客引きたちが勝手に自分たちでディスカウントしていって、私は最後に最も安い客引きを選ぶだけだった。
結局2000チャットのサイカーを選ぶことになったのだが、2000チャットというと大体2ドルくらいだ。
これもまた高いのか安いのかよくわからない。
しかし、兎にも角にも出たとこ勝負の旅は面白くて止められない。

駅や人の集まるところはどこでもそうだけれど、ここも例外では無かった。
バスが出入りする大きな門の外では、塀に沿ってタムロする人力車の客引きの猛攻にあってしまった。
人力車はこの街では「サイカー」と呼ばれている。
自転車の後ろに客が乗る荷車のようなものがついていて、自転車の力だけで客を運ぶのだ。
早い話が、馬車の馬の代わりが、人間の乗った自転車なのだ。

私が、今入ってきた長距離バスから降りてきたと勘違いしたのだろう..............
何人かのオヤジが寄ってきて、「サイカー、サイカー、サイカー..............」と私の腕をつかんで自分のサイカーの方に連れて行こうとする。
とにかく、この辺の男性は、インド系の人が多い上に毎日太陽光線に当たっているので真っ黒だ。
全く年齢がわからない。
若いのか年を取っているのか..............。

私は、パゴーのバスターミナルの中を少し覗いてみることにした。
案内板などは基本的にビルマ語の文字で書かれてあるので、私には全く理解不能だったが、目的地だけは英語も付け加えてあった。
北部の都市「マンダレー」やインレー湖方面の「タアゥンヂー」行きのバスがあるようだ。

昨夜の雨でぬかるんでいるせいで、満員の乗客を乗せてターミナルに入ってきたバスは、運転手が少しハンドルを切っただけで大きく車体が傾いてしまい、横転寸前のように私には見えた。
それでも、ここではそんなことお構いなしに、誰も心配そうな顔ひとつせず、明るい笑顔で自分の乗るバスめがけて走っている。



翌日、私は朝からパゴーの中心部の方に向かって歩き始めた。
昨夜の雨で、赤土で出来た道のあちこちに水溜まりが出来ていて、雲の間から少しだけのぞく太陽を反射させ、キラキラと遠くまで道を光らせていた。

10分ほど歩くと、どこか見覚えのある建物の前までやって来た。
よく見ると、昨夜あのインド系の女性がいた場所だった。
昨日は暗くてよく見えなかったが、建物の奥には何台かのバスが横付けされていて、これからまさに旅立とうとする客が列をなしていた。

そこには、日本ではもうあまり見かけなくなった大きな風呂敷包みを抱えた者や、何匹もの石亀を首のところで縄で一括りにして運ぶ者、何故か大量のハンガーを持つ者..............。
でも、ここには確かに現代の日本が失ってしまったエネルギーが溢れている。
ただこの光景を見て歩くだけでも、溢れてこぼれてくるエネルギーをもらうことが出来るのだ。



食事の間中、注文を取りに来た例のフロントの中年男性以外、人を見ることは無かった。
ひっそりと静まり返ったレストランで、黙々と私は空腹を満たしていったのだが、そのおかげで、年代を感じさせる置物や壁に掛けられた掛け軸など、確かに「中華」を実感出来る室内装飾を見ることが出来た。

料理を口に運び終わると、口が咀嚼している間、目は自然と周りの光景を楽しむようになっている。
そしてまた、口の中の物を飲み込み終わると、料理の方に目が行く。
これを何回か繰り返すうちに、部屋中の物をすべて物色することが出来た。
特に周りに人が居ないので、雑然が取り払われて、色々なことに想像力が働く。

「何故、わざわざここに中華が..............?」
単にこのレストランのオーナーが中華料理のシェフというだけのことなのか。
それとも、この地域がもっと歴史的事実に基づいて中国と深い関係にあるのか?

しかし、私の持つ「感覚」からは、ミャンマーというと、あまり「中国」とは結びつけにくいものがあるのだが、持っていた地図を開けてみると、この国の北側半分は確かに「中国」と国境線が接している。
私は、これを書いている時点では、ミャンマーと中国との関係の歴史については全くと言ってよいほど知識がない。
過去に中国の侵略を受けたことがあるのだろうか..............。

例えば、ベトナムを例に挙げると、過去2000年の間に、50回、中国は南進してベトナムを一時占領している。
平均すると、40年に一度という計算になる。

ベトナム中部の街フエなどに残る古い街並みの中国風建築からも、過去の北からの侵略が容易に想像出来る。



しとしとと降る雨が、時折吹く風に煽られて、玄関のガラスに叩きつけ、静まり返っていたロビーを妙に活気付けた。
無人のフロントの中を見渡すと、壁に掛けてある大量のルームキーが、ほとんど空室であるという事を示している。
もう夜も更けている。

安堵感から来る疲れか..............
この期に及んで、他のホテルと比べるような気も私は全く無かったので、言われるがままに13ドルを支払い、チェックインを済ませた。
206号室だった。

そして私は、部屋に荷物を置くとその足ですぐにフロント奥の「中華風レストラン」に足を運んだ。
とにかく、開放感からか、激しい空腹に襲われていたのだ。
しかし、ここでも人影は全く見られず、客はこの私だけ。
そして、先ほどのフロントの男性が注文を取りにきたのだった。

206号室


もう夜も9時を過ぎているせいか、それとも
宿泊客が少ないのか、表の道路からは、活気というものが感じられない。
「ここ、大丈夫なんだろうか?..............」
誰しもが感じるであろう不安が、私の脳裏にもかすめた。

正面玄関のドアノブを開け中に入ると、やや左前方の奥まったところが、どうやらフロントになっているようだ。
大きく左右に両手を開けて端と端に手をつくと、もうそれだけで終わってしまいそうな短くて小さなフロントのカウンターだった。

しばらく待っても、相変わらず誰もやって来ないので、カウンターの隅に置いてあった呼び鈴を一度押すと、遠くの方で男性の声が聞こえた。
どうやら、奥に中華レストランがあるらしく、もうこの時間になるとホテルの従業員はすべてそちらに出払っているようだ。
しかし、この暗闇の中、晩飯の店を探す手間が省けたようだ。

シュエターリャウン涅槃仏

私がパゴーで選んだのは「シュエ.シーゼンモーテル」
シングル一泊13ドル、エアコン付き。
一泊2ドルのホテルもあるにはあったが、湿度100パーセント、この地獄のような蒸し暑さだ。
今晩は、この「エアコン付き」という言葉に負けてしまった。

例のインド系の女性の案内で、すぐにホテルの前に到着することができ、約束の15ドルを払うと、彼らは再び暗闇の中に消えて行った。
受けた親切が心の中にしみて、小さくなる車のテールランプからなかなか目を離すことが出来なかった..............。

パゴーの街に入ってから、ずっと考えていたことなのだが、この街は一軒の家と家の間隔がやたらと開いている。
今は夜だから余計にそう思うのかも知れないのだが、周りを見渡しても、隣の建物らしきものは全く見当たらず、底知れぬ闇に包まれている。
今さら、他のホテルなど見つけることは不可能に近い。
「もし、満室で断られたらどうしようか..............」

やけに静かなフロントの方向を見て、不安が頭をよぎった。

やがて、運転手は見るからにインド系の、濃い茶褐色の肌をした中年の女性を伴って帰ってきた。
聞くと、ホテルまでこの女性が助手席に乗って案内してくれると言うのだ。
きっと運転手も、この暗闇の中、口頭による説明だけでは無理だったのだろう。

それを聞いて、私も申し訳ないという気持ちが先行して、無意識に手を合わしてお礼をすると、白い歯を輝かせ素敵な笑顔で答えてくれた。
わずか2~3分の間の同乗による案内だったが、人の親切が身にしみた。
「旅」に出ると、必ず、それもしばしば人から「親切」を受け、それによって心にエネルギーをもらう。
それだけでも、旅に出て良かったと思える。



バスターミナルの前まで来ると、運転手はもう一度ホテルの名前を聞いてきた。
「Shwe See Seim Motel」
再度、私は告げたのだが、上手く聞き取れないようだった。
それで、私はニャンウーから乗ってきたヤンゴンエアーの搭乗券の切れ端に書き込んで運転手に渡したのだ。
彼はしばらくそれを眺めていたが、何を思ったのか、突然それを握りしめて、暗闇のなかどこかへ行ってしまった。

いくら外国人の客と言っても、よく信用してくれたものだ。
車を空けたりしようものなら、中南米辺りだと帰ってきた頃には、恐らくは無くなっていると思った方がよいだろう。

しかし、この小さな出来事一つからでもわかるように、この国の倫理観や治安などは、私たちが考えるより遥かに穏やかで善いものであると私には感じられた。

先日も、「アウンサン スーチー女史」の演説を、アメリカのクリントン国務長官が称えるニュースが全世界に流された。
実際にこの目でこの国を見てみて、私は西側諸国に流されているこの「ニュース」の方に違和感を感じたのだが..............
それと「アメリカの影」にも..............

とうとうミャンマーも目を付けられてしまったのだろうか?..............

アメリカに目を付けられた国はどうなってしまうのか..............
「自由」という名の武器で強制的に「開国」させ、その次に世界中から「投資」を誘い込み、十分に太らせ、動きが鈍くなったところで、「おいしい肉」だけ持ってコッソリと居なくなるのだ。
農耕民族のように、自分で荒れ野を耕すような事はしない。

もともとあの民族は「カウボーイ」的民族なので、自分の牛を他人の牧草地に離し、「キャピタルゲイン」という名前の牛が丸々と太った頃、土地の所有者が気付く前、絶妙なタイミングで牛を回収しに現れる、といった事に長けている。
当然、食い尽くされ荒れ放題のところなど見向きもしない。
また牧草が自然に生えるまで放置し、その間は、また他のどこかで「牛」を太らしているのだ。
かく言うわが「日本」も、かつて同じように太らされ、あとには荒野が残った。

ミャンマーだけは、日本が辿った道を歩まないといいのだが..............



しばらくすると、さっきまであんなに飛ばしていた運転手は、エンジンが唸らない程度にスピードを落として、国道沿いにあちこちある標識を気にし始めた。
相変わらず外は暗かったが、確かに国道の両サイドには民家らしき建物が少しづつ現れるようになり、そのうちホテルまで出始めてきた。
「Bago Star Hotel」の看板。
ならば、もうすぐのはずだ。
タクシーに乗る前に見た地図を、私は覚えていた。
運転手は初めてと言っていいほど、大きくハンドルを左に切った。
それほど、ここまでの道中、真っすぐな一本道だったのだ。
左折した後、国道から100メートルほど雨にぬかるんだ道を進むと、そこにパゴーの大きなバスターミナルが姿を現した。

1時間くらいたった頃、完全に眠りに落ちていた私は、運転手の呼びかけで現実に呼び戻された。
「もうすぐパゴーですけど、どこに着けましょうか?」
あらかじめ、私は目星を付けてあったホテルの名前を告げた。
「シュエ-シー-ゼン-モーテル」
運転手は困った顔をした。
そんな細かいところまでわからないのだ。
当然だと思った。

私は地図を見て、その近くに目印になるようなものがないか探した。
「バスターミナル!」
「それなら知ってます」と言わんばかりに運転手はうなずき、再び沈黙の世界に帰って行った。

パゴーのバスターミナル付近


こんなところにも、日本の中古車が

パゴーまでのタクシーの中、寡黙な運転手に当たったせいか、ほとんど会話らしいものは無く、それがかえって心地よいエンジン音と相まって眠気を誘った。
もう既に外は完全な暗闇である。
見えるものと言えば、はるか前方を走る自動車のテールランプと、たまに現れる民家のおぼろげな灯りだけだ。
丘陵地帯だろうか?
ほぼ直線に近い国道が、微妙に上下しているのがわかる。
やけにスピードが出ている..............

横の窓を見ても完全な闇なので、運転席の計器類の灯りが窓ガラスに反射して、私の視覚を独占してしまう。
目の焦点を外の暗闇に持ってゆこうとすればするほど、ますます眠気と暗闇の世界に引き込まれてゆく。

ミャンマーでは、日本の中古車が圧倒的なシェアーを占める

もう、どっぷりと日の暮れたヤンゴン空港に着いた私は、パゴーまでの足の確保の為、到着フロアの中を歩き回った。
この時は、入国時とは違って、もうこの国の「空気」に十分慣れているので、あの大勢の出迎え客の異様な雰囲気に飲まれることもなく、余裕を持って探索することができた。
しかし、特に社会主義国によく見られるように、この国の空港にも、「空港バス」らしきものは無かった。
その結果、約60キロ先の「パゴー」まで、15ドルのタクシー代が必要になったのだ。

同じ国であっても、地域が変われば、建築様式や色使いまで違う
西や東からの、隣国の侵略に悩まされ続けたことがよくわかる

ヤンゴンの北70キロくらいのところに、「パゴー」という地名の街がある。
機内で、私は地図を広げ、ヤンゴン空港から先の目的地を検討していると、ヤンゴンほどではないにしても、ひときわ目立つようにくっきりとマークされた街を見つけた。
早速、私はガイドブックを開け、どんな感じか調べてみた。
しかし、考えれば考えるほど沢木耕太郎氏には本当に感心させられてしまう。
はるか数十年前、まだ今のように「旅の参考書」が無かった時代に、「深夜特急」のような旅、ガイドブックを一冊も持たず、ただ大きな地図だけを頼りに旅を成し遂げたのだから..............
しかも、まだまだ海外旅行などまだ珍しかった時代。

恐らく、この「ガイドブック」「旅の参考書」「......の歩き方」などは「旅」が本来持っている醍醐味をすり減らしてしまっているのだろう。
人は、「ガイドブック」を事前に吟味し、時にはこの「吟味」すら割愛して、「ガイドブック」の推奨する「モデルコース」なるものをなぞるように旅をする。
そして、一つ一つ、現地でガイドブックと照らし合わせて「確認作業」らしきことを行う。

「中身のわからない果実」の「皮」を剥く時、中にどんな美味しい「実」が詰まっているのか、人は期待感を持ってワクワクしながら、その「皮」を剥く。
時には期待通りの「実」が詰まっていることもあるだろうし、不幸にも「腐っている」場合だってあるし、腐ってまではいないにしても、全く自分の口に合わない場合だってあり得る。

「旅」の場合は、この「中身のわからない旅」を「剥く」ことに醍醐味があるのだ。
もし、剥いた結果、腐った「旅」が出てきたとしても、それは最低でも「みやげ話」にはなるし、上手くすればそれは「教訓」となり、その後の人生にとって大きくプラスとなる影響を与えることだってある。
だから、中身が「美味い」か「マズい」か教えてしまう「ガイドブック」は考えものだ。
かく言う私も「ガイドブック」は手放せないのだが..............




パゴー周辺は、インドの影響が色濃く感じられる

曇りがちの空だったせいか、離陸すると、あっという間に地表に点在する遺跡群は、真っ白な雲にかき消され見えなくなってしまった。
一体、世界にはどれだけの数、このような街が存在するのだろうか?
私が少し見たと言っても、その何百分の一にしか過ぎないのだ。
この世に生を受けた者なら誰しも、「一つでもたくさん見てやろう」とか「何か達成してやろう」という、仕事や家族以外の、生涯を通じた「心の中の生きた証」「生きる為の張り合い」のようなものを求めているが、自分の場合は、それが「旅」であり「世界の街」だった..............


しばらくすると、雲海の上に機体が顔を出し、翼の影が雲の表面に投影されていた。

まるで映画の場面が切り替わるように、さっきまで頭の中にあった、去り難いパガンへの郷愁感は、雲のどこかに消えてなくなった。
それとともに、今度は新しい目的地へのワクワクとした期待に胸が膨らむ。

パゴーの街道
このあたりは、この時期、湿潤気候で雨が多い

行きのエアーマンダレーは181FECだったのに、帰りのヤンゴンエアーは105FECだ。
確かに、「ヤンゴンエアー」は安いと外国人旅行者たちの会話からこぼれ出てくるのをよく耳にしたのだが、「何故だろう?」
空港に来てみて初めて素朴な疑問として頭に浮かんできた。
フライトの時間になって、滑走路を歩いて航空機の機体を見て、なんとなく理由がわかったような気がした。
かなり機体が古かったのだ。
エアーマンダレーの機体とは雲泥の差だった。
そして、最後部に取り付けられた階段を上って狭い機内に入り、いざボーディングパスを見ると、座席番号の欄が空白だったのだ。
早く言えば「自由席」
昔、富山空港から乗ったウラジオストク行きの「アエロフロート機」以来だった。



パガンの街とも、これでお別れだ。
馬車の後部の席からの眺めから、ニャンウーの街がどんどん小さくなってゆく。
サボテンやら松やらに見え隠れしていた町陰が、とうとう完全に見えなくなった頃、気持ちの方は次の街のことを考え始める。
本来、西の方角を目指している私にとって、このパガンという位置は、西隣のバングラデシュに抜けるには、絶好の位置にある。
バングラデシュの東の都市「チッタゴン」まで、直線距離で200キロそこそこしかない。
もし陸路で、バスが使えたら4~5時間で行ける距離である。
だが、今のところ、西隣のバングラデシュやインドとの国境は全く開いていないようだ。
もう少しミャンマーを回って、バングラデシュを目指そう。



ただ単に怖くなってしまっただけなのかもしれないのだが、私は、ロンリープラネットの一行を思い出し、あまり運転手を追い込み過ぎるべきでないような気がした。
通常なら100ペソくらいの距離だという事を私は知っていたので、「200ペソでどうだ!」(その当時は1ペソ約3円)
倍払うのだから文句はないだろうと思った。
しかし、法外な料金をふっかけた手前、それでは引けなかったのだろう。
「300ペソ」
運転手はあきらめ顔で言った。
この場は仕方ないと私は思った。
これくらいが落としどころだろう。
しかし、1000円くらいで済んだとは言え、旅には危険がつきものだ。
元はと言えば、私がキッチリとした料金交渉をしなかったのが原因だから、「旅」ではやはり「油断は禁物」なのだ。



あるノンフィクション作家の小説の中で、フィリピンのタクシードライバーの平均的な1日の売り上げが、400ペソくらい、ドルに換算すると10ドルくらいであるということが書かれてあったのを、私はしぶとく覚えていた。
だから、運転手が300ドルを100ドルにしたくらいでは、まだまだ納得が行かないのだ。
バックミラーに映った運転手の顔を見ると、さっきとは裏腹に、やけにニヤニヤしているではないか。
こっちがいくらなら払う気があるのか値踏みしているのだ。
恐らく、私が50ドルとか言い出すのを待っているのだろう。
私が黙っていると、案の定「70ドルでどうだ!」と言い出した。
まだまだ平均的日収の7倍だ。
OKするわけには行かない。
しかし、その時、訳も無く急に不安がよぎった。
「ロンリープラネット」に書かれてあった一行を思い出したのだ。
「Pilipino shoot quickly 」
簡単にピストルが出てくるから気をつけろ!
確かに、私の旅仲間には、実際マニラでホールドアップに遭った者が何人か存在する。



ホテルの方向に走っている例のタクシーの中で、今度は私が運転手に一泡吹かせる番だと思った。
とにかく、ホテルに戻りこの状況をフロントの従業員たちに話せば、この「不条理な請求」に対して私の味方をしてくれるに違いないし、少なくとも周りの人間をたくさん味方につけて、今の私の不利の状況を改善できるかもしれないと考えた。
今のこの一対一のままでは、あまりにも不利である。
そうしている間にも、車は徐々にホテルの方角に進んでいる。
そして、2~3分走ったところで、運転手は突然、路肩に車を寄せた。
感づかれたのだろうか?
運転手は突然、先ほどとは違う温和な目で振り返り私に言った。
「自分もこれから忙しく、他の客を載せなければいけないので、今日は100USドルにまけとくよ!」
いきなり300ドルから100ドルだ。
しかし、まだそれでも高すぎる。
運転手にしてみれば、ホテルまで行ってしまうと反対に、ぼったくるどころか、ホテル前で私に大騒ぎされて一銭ももらい損ねることだってあり得る。
もしかしたら、そんな風に思ったのだろうか?
私が、首を横に振り続けると、今度は運転手の方から、ドンドンとディスカウントし始めたのだった。



一般的に、東南アジアあたりで、10分程度の距離ならば、いくら物価の高い国と言えども、タクシー料金は10USドルかかることは無い。
この日、マニラで請求された「300USドル」は明らかに「ぼったくり価格」なのだ。
しかし、こちらには弱点があった。
料金を交渉せずに最後まで乗ってしまったのだ。
しかもメーターを使用せずに..............
弱点を変に理解してしまっている私は、強く出ることはできなかった。
こういう場合、一体どのように対処したらいいのだろうか?
一体、何が正解なのか?
もし、「運転手の言う料金」に納得がいかず、払わずに立ち去れば、逆に警察沙汰にされてしまうし、「運転手の言う料金」を言われるがままにすべて払うのも、それこそあまりにも不条理だ。
時間をかけて、値下げ交渉するべきか?
今の自分の置かれた状況はいかにも不利なように思えた。
そして、私はとっさの判断で運転手に言った。
「今は手持ちが少ないので、私のホテルまで一度戻ってくれ。金を取りに戻りたい。」
一瞬、ある巧妙が閃いた。
私なりの「形勢逆転」に持ってゆくためのシナリオが..............
どうせだったら、ホテルの従業員たちの前で、このタクシーの運転手と戦ってやろうではないかと思った。
最悪、300ドル払わなければならなかったとしても、せめて「みやげ話」くらいにはしたかった。
果たして上手くいくのだろうか?
相変わらず「心拍数」は上がったままである。
そして、運転手はこちらが言う通りに、ホテルの方向に車を進め始めたのだった。



マニラで、メーターを起動させないままのタクシーに乗って「知らぬが仏状態」で目的地に向かっていた私は、やがて自分の「失策」に気づかされることになる。
恐らく、このタクシーの運転手にしてみたら、当然、「計画的」にメーターを起動させなかったに違いないし、目的地に着くまでの間、私がこの「起動していないメーター」に気づかないことを、神に祈る気持ちだったことは容易に想像がつく。
今から思えば、この時は、前日からの極度の疲労の上に、乗車する前から巧みな策略で、客の気を逸らせ、最後に法外な料金を請求する手口を持った運転手の罠に、マンマとはまったのだろう。
目的地に着いた私は、一切、数字の点灯していないメーターに気づいたのだが、もう後の祭りだった。
悪い予感というものは、当たるようになっている。
一瞬、運転手と目が合うと、その「強烈な視線」は私の脳を突き刺し、その後心臓の洞房結節に飛び火し、やがて房室結節、プルキンエ繊維へと徐々に広がりを見せ、私の「心拍数」を高めて、胸部をえぐり取られんばかりの不安感の極致に陥れるのだ。
その「心拍数」が最高潮に達した時、運転手が放った一言が、「300USドル」だったのである。



そろそろニャンウー空港に向かわなければならない時間になってきた。
荷物をまとめてチェックアウトし、私は前の道で馬車を探した。
大抵の場合は、見通しの良い木陰や軒下を自分の拠点として馬車は待機しているので、我々外国人が荷物を持ってキョロキョロしようものなら、こちらが黙っていても向こうから乗らないかと聞きに来てくれる。
しかし、向こうから寄ってくる連中は、ほとんどと言って間違いないほど、
「ぼってくる」。
要するに、最初は必ずと言ってよいほど「ぼったくり価格」を提示してくるのだ。
私は、今までの長い旅の中で、この「ぼったくり」と一体何回対峙してきたことか。
しかし、驚くこと無かれ!
まだこの「ぼったくり価格」は、提示してくるだけまだ「良心的」なのである。
自分が、その価格に対して「高い」と思えば、適正価格だと思うまで「値下げ交渉」すれば良いし、相手が交渉に応じなければ、他の馬車を探せば良い。
たとえ、その「ぼったくり価格」が法外な値段だったとしても、自分自身が納得して乗車するので、最悪でもその「ぼったくり価格」以上払うことは無い。
以前、マニラの市内のタクシーに乗った時のことだが、私はとんでもないことに出くわしてしまった。
いつも私は、特にタクシーに関しては慎重に利用する方なのだが、その時に限って、前日からの極度の疲労で「注意力」が散漫になっていた。
「メータータクシー」に乗ったのだが、いざ降りる時になって、肝心のメーターが起動していなかったことに気がついたのだ。
外国では、仮にタクシーにメーターが付いていたとしても、客が金を沢山持っていそうだと思った場合、運転手はメーターを使いたがらない。
普段の私なら、運転手がメーターを使わないとわかれば、即、目的地までの料金交渉をするのだが、どういう訳かこの日はこれを怠ってしまった。
そのあとの結末は、もう想像の通りである。