FC2ブログ
「深夜特急」の世界に憧れて (回想録 XX年)
結果的にこの村には、この「私」を認識してくれる人、つまり友人とまでは言えないまでも、単なる顔見知りよりは上回ると言える「またいつか訪ねて会ってみたい人」が二人出来た。
きっと2~3年くらいなら覚えていてくれるのだろう。
しかし、実際のところは再びまたこの地を訪れるというのは、容易なことではない。
たぶん、相当高い確率で来ることはないであろう。
だからゆえに、無意識下で脳が「忘れない記憶」として強く焼き付けるのかもしれない。


スポンサーサイト




もうひとつ訪れておきたかったのは、やはり例の「スラマニ寺院」だった。
この寺院は1181年、ナラパティズィトゥ王の手で建てられた。
中には東西南北を向いた4体の赤く塗られた仏像が置かれている。
私の場合、この寺院の歴史もさることながら、やはり顔見知りになった土産物屋のおばさんに、もう一度だけ会って、これでもう帰ることをなんとなく告げておきたかった。
不思議なことだが、「旅」の途中で出会った人々の記憶というのは、他の場合と違ってより鮮明に残っているような気がする。
「旅」というのは、自分自身で組み立てていく「自作映画」のようなものなので、実際に「旅」をしている最中は、お店のおばさんのような登場人物がたくさん出てくる。
だから、あとで思い出した時に、旅の途中で出会った人々は、「自作映画の登場人物」として、いつまでも強烈な記憶として、心の中にとどまっているのだろう。
それともう一人の登場人物、いつもどこかこの辺りで、例のハイカラな自転車で遊んでいたあの少年。
しかし、この日はとうとう見つけることは最後まで出来なかった。

スラマニ寺院
少しお布施をすると、仏様に金箔を貼ることが出来る

パガンを去る前に、もう一回だけどこか訪れるとしたら、私の場合は「ゴードーパリィン寺院」だった。
パガンでは2番目の高さを誇る寺院だ。
13世紀に建てられたこの寺院は、スラマニ寺院を建てた後にナラパティズィトゥ王が建てはじめたが、途中で亡くなり、息子のティーローミィンロー王によって完成されたということだ。
それにしてもなんという美しさだろう。
どの角度から見ても人の心を引きつけるこの勇壮な姿。
今も脳裏に焼き付いていて、忘れることが出来ない。

ゴードーパリィン寺院

ヤンゴンエアのフライト時刻は17:55だ。
まだまだ、十分に時間はあるので、最後に遺跡をもうひとまわりしよう。
この数日、遺跡群のエリアを精力的に走り回ってはきたのだが、今ひとつその由来や歴史について、そこに書いてある看板などあまり読まなかった。
せめて、少しだけでも学習してゆこうという気持ちが湧いてきた。
今までの旅でも、私の悪い癖で、「そこに行く」ということに重点が置かれてしまって、目的地に着いた途端、頭の中はもう次の目的地の計画ばかりたてているということが多かった。
だから、後で帰ってきてから、詳しいことについて知ったりする。
せめて、残った時間で、ひとつふたつ遺跡について勉強することにしよう。



チケットの予約を頼むと、少年は受話器を持ったまま私の方に紙と鉛筆を差し出した。
何か書けと、仕草で伝えているようだ。
「NAME」とだけ小声で少年は言った。
予約を入れるのに必要なのだ。
言われた通り紙に記入して少年に渡すと、電話の相手に伝えながら、年季の入った机の引き出しを開け、恐らくはチケットだと想像のつく冊子の束を取り出した。
そして、電話を切るとその束から真新しい1冊を開けて、私の名前を記入し始めた。
ここまで、実に手際が良かった。
子供だと思って侮っていたのに大したものだ。
そして、約束の105FECを払ってチケットを受け取ると、また少年たちは何事もなかったかのように遊び始めたのだった。



翌朝、私はヤンゴン行きのチケットを手に入れるために、ホテルのフロントに教えてもらったオフィスに出かけた。
行ってみるとオフィスというよりは、ほとんど「村の駄菓子屋」という感じだった。
というのも、店の中には子供しか居らず、私が来るまでは何かメンコのようなものでみんなして遊んでいた。
しばらく、私は場所を間違えたと思い、左右の建物をチラチラと見ていたのだが、他の建物はますます怪しい。
仕方なく、遊んでいた子供たちにチケット屋の場合を尋ねると、やはりここだという。
そうすると、中でも一際しっかりと見える少年が、丁寧な言葉使いで、「ヤンゴンか?」と聞いてきた。
そうだとうなずくと、そばにあった黒電話に手を伸ばし、どこかに電話を始めた。
当然、こんな小屋には、パソコンのようなものはない。
しばらくどこかと会話していた少年は、持っていた受話器を耳から離し、私に向かって話しかけてきた。
「今日の夕方、17:55に、ヤンゴンエアというのが105FECであるが、どうしますか?」
他に選択の余地など無いのはわかっていたので、即座に首を縦に振った。
なんとしっかりとした子供なのだ!
国が違えばこうも違うのか............



陸路で西へ向かうことが出来ないと言うことになると、いずれにしてもヤンゴンへ一度戻ることになる。
事前に、情報で特に西側の国境は開いていないと言うことは聞いていたのだが、実際に近くまで行ってみると、あっさり通過出来たりするという話をよく聞く。
ただし、それはミャンマーには当てはまらなかったようだ。
周りにいる外国人旅行者たちに聞いても、そんな情報は全く無いようだ。
私は、翌朝、ヤンゴン行きのチケットを手に入れるために村の中心にある代理店に行くことになったのである。



ミャンマーは、徹底した鎖国政策を守っている。
だから、陸路で国を移動してゆくタイプの旅行者には敬遠されがちだ。
今のところ、一部の日帰り観光を許可しているタイや中国との国境付近を除いて、ミャンマーを陸路で通過することは出来ないようだ。
ただ、その結果、外国からのいろいろな影響を受けにくいので、パガン遺跡のような、昔の姿をそのまま留めた風景が保たれるのだろう。

アーナンダー寺院

その日の夕方、一度ゲストハウスに戻った私は、「ロンリープラネット」ミャンマー編や付近の地図を持って、近くの食堂へと出かけた。
地元のビールをとりあえず注文し、テーブルの上に地図を広げた。
「はたして、明日からどちらの方向に進もうか............」
やってきたビールを口に含んで思案する。
この「思案中」が、「旅」のもうひとつの楽しみだ。
昨日、村のハズレにある観光案内所で聞いてみたのだが、やはりミャンマーからインドやバングラデシュに抜けるルートは一切無いそうだ。
西に進むためには、どうしても一度ヤンゴンに戻り、そこから空路を利用するしかないようだ。

パガン遺跡でお世話になったレンタサイクル

この少年、このあたりで見かける子供にしては、ハイカラな服を着ているし、自転車も上等そうだ。
このパガンに滞在している間、この少年とは何回か出会った。
結局、言葉を交わすことはできなかったのだが、お互い自転車同士、少しの時間、併走して走ったり、私が持っているボールペンをあげたりしているうちに、すっかり友達になってしまった。
別に言葉はわからなくとも、すぐに気が合って仲良くなった。
この先、もう会う機会が多分無いのはわかっていても、もう友達だ。
それにしても、この少年、いつも一人で遊んでいたのが気になった............

パガンの少年

帰り際、どこまでも追いかけてきた

自転車で遺跡をさまよっていて困るのが、やはり「暑さ」だ。
朝、ゲストハウスを出る時、ミネラルウォーターを1本持って出るのだが、すぐになくなってしまう。
しかも店などこの地域にはほとんど無い。
そして、これだけあちこちウロウロしていると、同じところを何回か通り過ぎるようになり、自然と道を覚えてしまう。
ただ、アーナンダー寺院から東の方向に1キロくらい走った原っぱの真ん中に「スラマニ寺院」というのがあって、この前には唯一、このあたりでちょっとしたお店が出ている。
ここには、水やジュース、アイスクリーム、お菓子、土産物など一通り揃っていて、重宝した。
そのうちに、ここで冷たいジュースを飲んで一服しては出かけ、暑くなってはまたここに戻るというのを繰り返すようになった。
当然、店のおばさんとも顔なじみになり、遠くから私の自転車が見えると、手を振ってくれるようになった。

スラマニ寺院

パガンを自転車で走り回っていると、時折、本当に「古代」に今自分が存在しているような錯覚に襲われる。
それは何故なのかよく考えてみると、極端に人が少ないのだ。
たまに道の向こうに人が見えても、何故かいつも一人だし、それも茶色の袈裟に身を包んだ裸足の僧侶の場合が多い。
要するに、今自分の目に映っている光景は、自分を除いて一千年前と何ら変わらないのだ。
だから、自転車を漕ぎすぎて頭がボーッとして名もないパゴダの影で休んでいると、不思議な妄想によく支配されることがあった。
しかし、この「古代の妄想」のおかげで幸せな気分にさせてもらえた。
これもまた「旅」の力なのだ。
旅って、ホントにいい~もんですね!

いつまでも「観光地化」されませんように!

何故か、いつもお坊さんが一人

この日は、1日中、遺跡群の中を自転車で走り回っていた。
面積で言うとどうだろうか、京都市の盆地位の大きさはありそうだ。
一体、その端がどこなのか見当もつかない。
地図もあることはあるのだが、何せどこも似たような景色で、目印と言えばどれも似通った形の「パゴダ」だけだ。
遺跡群が、そうでなくなる所に境界線がある訳でもない。
特に道が舗装されていることもなく、かといって道が全く無い訳でもない。
なんとなく、同じ所を繰り返し人々が通るせいで出来た「わだち」だけが頼りだ。
しかし、この「わだち」が結構心強いのだ。
何故なら、人工的にしかも計画的に舗装された道路の場合、ある一定の規格を無理やりに当てはめて作るので、整然とし過ぎていて、そこから時間的な歴史的な情報を感じ取ることが出来ない。
しかし、「わだち」なら、その微妙なヘコミ具合から、「この道はたくさんの人が通るのか」とか、わだちのラインが2本あれば、自動車か馬車が通る道だという事がわかるし、もし道に迷っても、その「わだち」を濃くなってゆく方向に進めば村のあるところにたどり着くことが出来る。

あてもなくノロノロと自転車を進める

1千年前から変わらない光景の中を

どこまでも続く子供の頃の絵本の世界

「ミャンマー」=「治安が悪い」という「先入観」が、もし存在するとすれば、少なくとも私の目から見れば、それは完全に間違いだろう。
ほんのわずかな事件をことさら強調して記事に取り上げるマスコミが原因なのか、あるいは自国に対する利益誘導の目的で「テロ支援国家」なるレッテルをミャンマーに貼り付けるアメリカがそうさせるのか。
いずれにしても、大国の思惑によって、「小国」の「イメージ」が翻弄されているのは間違いなさそうだ。
そう言う私も、実は、初めてミャンマーを旅する前は不安で、結構心配した時期もあったのだが、実際行ってみると、それはまさに「正反対」で、「ミャンマー」=「治安の良い国」と断言出来る所だったのだ。
間違った風評や情報で、身構えていた自分が馬鹿馬鹿しくさえ思えた。
あのジムロジャーズ氏も常々言っていた。
「人生は短い。遠くへ行け!そして自分の目で確かめろ」
きっと「旅」には、元来自分が持っている固定観念には「誤った部分」もあるのだということを気付かせてくれる力があるのかもしれない。
しかし、それだけに、今度は自分が自分の好き嫌いによって「間違った風評源」とならないように気を付けなければならない。
ただし、自分にはそれだけの情報の「発信力」は無いのだが............

我々、日本に住む者から見れば、「ミャンマー」と聞いただけで、「治安が悪い」とすぐに反応してしまう傾向があるようだ。
先日、仕事関係の友人から、「今度の休暇に、どこか旅をしようかと思うのだが、どこかいいところを紹介してくれ」と頼まれた。
「どんな所がいいんだい?」
「そうだなあ、あまり、人が行ったことが無くて、治安がそこそこ良くて、一生の思い出になる所!」
「そうかあ、それだったら、まず一番目にお薦めは、イエメンだな。」
「イエメン、それどこだ?遠いのか?」
「サウジアラビアの下」
「遠すぎる。もっと近い所は無いのか?」
「それだったら、ミャンマーかな」
そう言った瞬間、彼の顔色が変わった。
「治安が悪いんじゃ無いの?」
ミャンマーと聞いただけで、もう反射的に引いてしまっている。
決して、そんな事ないのに............

日本に居てもそうであるが、やはりミャンマーも例外ではなかった。
平日のラッシュ時の東京の街中を想像してみよう。
私だけがそう思うのかもしれないが、街中を携帯の画面に目を落とし、脇目もふれず、他人のことに関心を寄せず、足早に皆歩いている。
それが、少し田舎の方の街に行くと、「空気」ががらっと変わって、のんびりとした「空気」につつまれる。
都会の建物や構造物がそうさせるのか、あるいは「人と人との距離感の短さ」「人口密度の高さ」がそうさせるのか。
なんとなくだが、ミャンマーでも同じように感じることがあった。
ヤンゴンの市内では、縦横無尽に車が走り回り、せわしなく人々が歩き回っているように見える。
別に、日本からやってきた私からすれば、このヤンゴンでも十分にのんびりとした「空気」を感じることが出来るのだが、
ニャンウーの村までやってくると、更にその「空気」にスローさが増してくる。
遺跡の傍で出会った子供達などは、私が持っているカメラを見て、「写してくれ」と言ってきた。
写した写真が見れる訳でもないのに............




翌日、私は、再びこのパガン遺跡を精力的に廻ることにした。
朝から自転車で、思いついたまま、フラフラと自然に任せて、遺跡のエリアをさまよった。
本当なら、ガイドブックを片手にひとつづつ、歴史から勉強しながら回れば良いのだが、どうもそういうことが昔から面倒なのと、この暑さだ。
きっちり観光するタイプの旅行者からは、怒られそうだが、あちこちにあるパゴダに入っては、日陰で涼んで、また次へというのを繰り返したのだ。

ニャンウーのゲストハウスに戻ると、すでに午後の2時を過ぎていた。
青年は、傷口の簡単な手当てのあと、住所交換をして、自らのゲストハウスに帰っていった。
その後ろ姿を見て、「もう、会うことも多分無いんだろうなあ~」と、心の中でいつも思う。
旅をしていると、このようなことが何回あったことか。
また、一人に戻った。
ほんの少し、孤独感を味わう。
これもまた、「深夜特急97」の中で、沢木耕太郎氏を演じる大沢たかおが、パキスタンのクエッタで再会した男性と、イランのケルマンまで旅を共にし、やがてそれぞれの道を進む、あのシーンが思い出される。

しばしの頂上での感傷に浸った私は、ポッパ山をあとにすることにした。
下山する途中、所々にあるお店で飲み物など買い、下りは本当に気持ちの良いものだった。
何段あったのかわからないが、よくもこれだけ登ったものだ。
一番下まで来ると、我々の車のドライバーが、タバコをくわえながらどこからともなく現れ、「どうでしたか?」と感想を聞いてきた。
「サルにやられたよ............」
青年は苦笑いし、痛々しい腕をドライバーに見せながら話ていた。

昔、それも30年以上前になるだろうか。
京都の「京極東宝」という映画館で、「ビルマの竪琴」という映画が上映されていたのを、この風景を見ていて、突然記憶のかなたから蘇えさせられた。
主演は「中井貴一」だった。
日本軍の前線基地だった「三角山」で、中井貴一演じる「水島上等兵」が、連合軍の攻撃によって多くの仲間が無縁仏になってゆく様を放置できずに、現地の僧侶となり生涯をこの亡き日本兵たちの弔いに捧げるため、ビルマの地をさまようというものだ。
ラストシーンで、捕虜収容所の柵の向こうから、「おーい、水島。みんなで一緒に日本に帰ろう」と、オオムに覚えさせ、この水島上等兵の肩に載せ、何度も話させたのも叶わず、霧の立ちこめる森の中へ、一礼して立ち去ったあの風景と、今、この「ポッパ山」の頂上から見る風景とは、かなり重なるものがある。
水島上等兵の「人生を捧げた決断」には、本当に考えさせられてしまう。
この個人主義が行き渡ってしまった現代に、もう一度自分を見つめ直させてくれる。

頂上までは、30分位かかった。
たしかに、階段による登山であったが、途中には小さな食堂があったり、大小様々なお堂があったりと、とても楽しい経験が出来た。
しかし、ここは一応熱帯なので、途中からは全身滝に打たれたあとのごとく汗が流れた。
この日は、幸い頂上付近は曇っていて、霧を含んだガス状の強風がとても心地よかった。
頂上に作られた展望台からは、360度ぐるりと見渡すことができ、やはりここが熱帯であることを再確認させんとばかりに、鬱蒼と茂ったジャングルが広がっていた。

サルの反撃は青年にダメージを与えるには十分だった。
理屈からすれば、リュックを返せばそれでこちらからはもう何もしないのは明白な筈なのだが、サルにはそういう理論は通用しない。
サルからすれば、身に危害が加わると思ったのだろう。
青年は腕に大きな傷を負い、血がポタポタと滴ってきたので、私はたまたま持ち合わせていたバンドエイドを貼って、青年のタオルで縛って圧迫止血した。
これでとりあえず、ポッパ山登山は続けることが出来たのだが、この辺の細菌は侮っていると後で怖いので、後でゲストハウスに帰ってから、旅の時にいつも携行している抗生物質を青年に手渡したのだった。

頂上にて

サルにリュックをもぎ取られた青年は、たまったものではない。
リュックを取り返えそうと、へたばっていた筈の体が、まるで変身したかのように蘇って、サルを追い回し始めた。
サルはサルで、必死だ。
中に何か美味いものが入っているに違いないと思っているので、重たいのを必死にこらえて階段を登ってゆく。
普通なら、サルもどちらかサイドに逃げればそれでサルに軍配が上がるのだが、ここは如何せんトンネル状になっている。
青年も必死だ。
サルに追いつき、リュックを掴もうとした。
その時、とっさにサルはリュックから手を放し、牙をむいて青年の腕を引っ掻いた。
その結果、リュックは返ってきたが、腕に傷を負ってしまった。

途中にあったお堂

もう何段登っただろうか?
階段は、あちこちジグザグに曲がりくねって、この大きな岩山を回り込んで登ってゆく。
残念なことに、階段には雨除けの為にすべて屋根が設置されており、左右には色んなお堂や岩肌になっているので、どれだけ登ったのか、周りの風景から確認することができない。
まるでトンネル状の階段を、果てしなく進んでいる気分だ。
そろそろ、ひざに乳酸が溜まりはじめる気配がしてくる頃、かなり前方を登っていた青年が失速しはじめた。
別に競争するつもりはないけれども、私はもともと性格が「前半は押さえる」をモットーに、何事もやってきたので、青年がへたばって座り込んだ様を見て、
「だから、言ったでしょう!」
と、ついつい言ってしまう。
そんなへたばっている青年に、更に追い討ちをかけるような出来事。
なんと、あちこちにたむろしていた「サル」が、青年のリュックをむしり取っていったのだ。

ざっと見積もってみても、ここからは400メートル位の標高差があるだろう。
これをすべて、ピカピカに磨かれているとは言え、石の階段で登るのだ。
しかも、裸足で!
最初の第一歩を踏み出した。
石で出来た階段なので、ヒンヤリと冷たい。
外気は、大量の湿気を含んだ熱帯の空気なので、妙に足が気持ちよい。
それにしても急階段だ。
青年の方は、小気味よくタッタカタッタカ登ってゆく。
あまりにも急な所は、落下防止用の鉄製手すりや、手で掴む為の「くさり」が各所に設けられている。
「あんまり、急ぐとバテるよ!」
私は、はじめて青年に意見した。
私は中学生の時から長い間、陸上で中長距離を専門にやっていたので、このペースで最後まで持たないのはわかっていた。
「大丈夫です!」
元気な返事が返ってきたのだが................

想像するに、恐らく香川の金比羅宮のような形態になっているのだろう。
入口の奥を覗き見すると、急階段が上方に続くのが確認でき、あまりに急なためか、十数段先に目をやると、二階の屋根にじきに邪魔されて、そこから先は見ることができない。
しかし、問題はそれだけではなかった!
参道口ではやはり、靴を脱ぐようになっていたのだ。
「靴を脱いで、今からこの山を登るのですよ。」
青年は、薄い笑みを浮かべて、サラッと言ってのけたのだ。
「裸足でこれはきついなあ~!」
自然な気持ちがついついこぼれ出た。

山と言っても、登山口がある訳でもなく、ハイキング姿をした人や登山家の格好をした者がいる訳でも全くない。
ただそこには、他の寺院と同じように、入口に門前町風の土産物屋を従え、食堂が軒を連ね、どこからともなく線香の煙り漂う一風「お寺」と何ら変わらない光景があった。
しかし、ひとたび顔を上方に上げてみると、たしかにはるかかなたに、城壁のようなものに囲まれた寺院を見ることができるのだ。
この塊が、大昔、火山の大噴火で飛んできて、この地に落下したのがこれだ。

ポッパ山

結局、このドライバーには申し訳ないのだが、土産物屋は見学だけにとどめて、先へ進むことにした。
ヤシの木が散在するなんでもない平原を走り、更に30分位、青年と旅の話しを続けているとにわかにカーブの多い山がちな地形になってきた。
ポッパ山が近いのだろうか。
なんとなくそれらしい気配がしてくる。
崖っぷちの大きなカーブを曲がると、ドライバーが再び口を開いた。
「あれが、ポッパ山です」
それは、想像していたのとは全く違った姿をしていたのだ。
どちらかと言うと、ミャンマーと聞けば「平野」というよりも、こちらの「山」という方が似合うかもしれない。

今、通ってきた道 (ポッパ山の上から)
これを全部、裸足で登るのだ!

更に、ドライバーは私達を奥の方へと導いてゆく。
そしてそこには、背の高いヤシの木が何本か並んでいて、上にはラグビーボールの大きさくらいの実がいくつか成っていたのだ。
「一体、こんな所に連れて来て何を売ろうというのだろうか?」
と思っていたら、
「まさか!」
直感というのはよく当たるように出来ている。
この光景を見せられると、やはりこれしか無いという感じだった。
しばらくすると、30歳くらいの、痩せこけた男性が出てきて、ロープ1本だけを使って、ヤシの木に登り始めたのだ。
「たぶん、ヤシの実を取ってきて、売りつけに来ますよ」青年が言った。
「頼んでもいないのに?」
「そういうものなんですよ~。別に、買う必要はありませんよ。」
青年の予想通り、上からヤシの実を取ってきた痩身の男は、私達の目の前でヤシの実を割って見せて、私達に差し出した。
「触っては駄目ですよ!」青年は、私に忠告した。
「値段も決めずに、口を付けたら、とんでもない料金を請求されますよ。」
なんか痩身の男には申し訳ないような気がしたが、その場は青年に従っておくことにした。